被写体を見極め、カメラを構え、構図を決めてシャッターを切る・・・
それが写真を撮るという行為だったとすれば、スマホのカメラで気になったものをとりあえず記録しておこうという作業は、どちらかというと「イメージの採集」というほうがぴったりくるような気がします。
でもそれは、必ずしも悪いことばかりではなくて、無意識に採った写真には、時に意識を集中させて撮った写真以上のものが映っていることもあるのです。
8年前にインスタグラムを始めたとき、あんまり節操なく写真を集めるのもなんだな~と、とりあえず「自分に何かを伝えてきたもの」という縛りをかけて、「メディアとの出会いの記録」と名付けてきました。
「何を伝えてきたのか」ということはその瞬間に明確でなくてもいい。
なぜか、あっと何かを感じて、今目の前にあるモノを、今この瞬間を、残しておこうと思うということは、その対象物や状況から何かを自分が受け取ったということなんだろうと思ったからです。
改めて、インスタグラムをさかのぼって眺めてみると、無意識の断片の標本のような、パッチワークのテキスタイルのような趣を感じます。
そのイメージの断片からすっかり忘れていたモノ・コトがよみがえったり、その時には気づかなかったことを考えるきっかけを、もらったりすることもあるのです。
ここにメディア論の原点があります。
生活の中の無意識の集積が、少しづつ人生を創っている・・・「イメージの標本」には、そのプロセスをなにがしか映っているともいえそうです。
そんな日常の中の「何かを伝えてきたもの」との戯れを、気まぐれに記録しいきたいと思います。
そういえば英語では、「生活」と「人生」を同じ言葉で表現しますね。